<屋島源平合戦記>
話は800年の昔に遡る。寿永3年2月、一の谷の合戦に敗 れた平家一門は、海を渡って讃岐の国、屋島壇ノ浦に陣を構え た。平家は水際に幕舎を張り、行在所を設けて、総門を築いて 守りを固めた。一方、九郎判官義経を大将とする源氏は、年変 わって元暦元年2月16日、摂津の国渡辺の浦を船出して、阿 波の国勝浦に上陸した。折からの暴風雨をついて舟を出したも の僅かに5艘。総勢150騎、義経は直ちに兵を進めた。讃岐 の国、志度の浦近くに至って源氏は、附近の民家に火を放ち、 大軍を装ってどっと押し寄せた。海上のみを警戒し、主力船団 を、船隠しの浦に潜ませて、陣を構えた平家3000余騎は、 不意をつかれて周章狼狽、忽ち陣を捨て、舟にのって海に逃れ た。源氏はこの隙に屋島に上陸し、行在所や、陣営を焼き払っ た。しかし源氏が小勢なのを知った平家は、間もなく舟を返し て逆襲、水際で激戦が展開された。世に名高い「義経の弓流し 」はこの戦いの出来事である。また佐藤継信は、義経を狙った 能登守教経の矢面に立ち、主の身代わりとなって壮烈な最期を とげた。2月20日も暮れようとする頃、沖の方より、竿の先 に扇をつけた一艘の小舟が近ずき、美しい女房が岸辺に向かっ てさしまねいた。「あの扇を射よ」と義経の命を受けた那須余 一宗高は、12束二つ伏の弓を手に、馬を海に乗り入れた。折 りしも風は吹きつのり、舟は揺れ動いて扇の的も定かではない 。かくてはならじと、余一宗高は、目を閉じ一心籠めて念ずれ ば、不思議や風は、静まり波もおさまる。この時と余一が放っ た矢は、見事扇の要際を射切った。扇は空高く舞い上がり、や がて竜田山の紅葉もかくやとばかり、夕日にキラめきつつ海に 散った。 |
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